未来志向でいこう。

今日もまた新しい一日。私と家族の超プライベートな日々の出来事。

【旦那さんの1か月検診と息子のことを個別に考えること】

もう一昨日のことになってしまった。

旦那さんの手術1か月後検診でした。
予約よりも早めに病院に行って、K先生の診察。

K先生は、秒針のついた時計で、手首を触って脈をはかり、聴診器をつかって胸の音をきく。

見た目がダンディで、しぐさもセクシーだ。かっこいい。

問題ないね!ということで、次は6か月後。

 

その後、旦那さんと近所のカフェでちょっとお茶。

 

f:id:h-katori:20190110065725j:image


お正月の話をしたり、お買い物の話をしたり、ランチどこにする?とか。お正月の間にいろいろ考えることがあって、少し長めに話した。

 

お買い物にいって新しいフライパンを買い、気になっていたカリーやさんへ。
スリランカカレー。

 

f:id:h-katori:20190110065745j:image



シェフの男性スリランカ人のその人の80歳のおばあちゃんがいて、かわいらしかった。元気だなあ。80歳でかいがいなんて!

帰ってきて夕方、お正月のあいさつに行っていなかった叔母のうちにいった。
80代と90代の叔父と叔母はまだまだ元気!会いにいってよかった!

 

 

夜になって、ご飯を食べて、お風呂のなかで、息子が


あ!!ママね、やり忘れてた宿題がある!お風呂でたらやらなくちゃ!

というので、

今からやる?

と聞くと、だって、先生やってきてッて言うから。

そうなんだー。

じゃあ、あがったらすぐやろっか。


そのあと、すぐに宿題に取り掛かる。一緒にみていたら、あっという間にできた。

宿題に取り組むことは、息子にとってはどういう意味があるのだろうか。
やらされていること、というよりも、やっていったほうがいいものに変わりつつあるのだろうか。


今日はお布団で本をよもうかなー、

と息子がいうので、

じゃあ、ママも読もうかなー、

と、二人で、ベッドで読書タイム。

 

f:id:h-katori:20190110065832j:image

 

息子は眠くてすぐに寝てしまったけれど、私はしばらくページをめくっていた。


相変わらず、ゲームはするし、携帯でも遊ぶけれど、それを寝床に持っていくことはしない。前からそうだけど。


息子は、不登校を1年ぐらいやっていたけれど、今は学校に行っているし、宿題もやるようになって、本を読むようになった。

昨日はサッカーの試合を一生懸命みていた。

これまで興味を示さなかったものにも興味を示すようになって、視野が少しずつ広がっているような気がする。


どうしてかはわからない。

私がやろうとしたことは一つだけ。
「理解のある親」からの脱出。

具体的には、


*息子を完全に理解できることはないし、わかったつもりにならない。
*息子の「不登校」を一般化しない。
*息子に近づく。

 

ここのところ、「不登校」とひとくくりにできないような気がしている。親も「親」という言葉でひとくくりにできない。

 

本当のところはわからない、これがわかっていること。


息子のなにか個別の問題が解決したのかもしれないな、とも思った。それにまた行かなくなるかもしれないけれど、そうなったらまたそうなったときに考えよう。

家族にまつわる、さまざまな問題はやはり個別で、その家族にしかわからないし、ましてや家族だって、一人一人の本当のところはわからないことが前提だ。あれがいい!これがわるい!などと断定できない。

それでも、親も子供も少し楽になれるといいなと思う、それだけなんだよなあ。