【タイムマシーンが欲しい】
朝が苦手な息子。ぐずぐずと起きられなかった。
昨日、明日学校に行こうと思うというので、明日は起こすねと約束していた。
案の定、なかなか布団から出てこない。
起こしにいっても出てこないので、今日はパパも休みなので、二人でご飯を食べ始めました。
そしたら、ときわを抱っこして嬉しそうに起きてきた。
起きてきてからも、あーだこーだとぐずぐず。でも以前のように悲壮感はない。
そして発した一言。
ああーー、タイムマシンがほしい。朝に戻らないかなー。
遅刻やだなぁー。
起きられたら行くんだよ、もちろん。
あははは。まだ朝だし!起こしたわ、なんども!ご飯食べなさい。今日はじゃこチーズのおにぎりだよ。
息子が食べ終わったら、私は部屋にモップをかけながら、
行かなくてもいいよ。行かないなら、ママ、このまま仕事行くわ。
どうしよっかなー、2時間目終わりに行きたいんだよなあ。
ママ、その時間は無理よ。このお掃除が終わったら、出かけたい。
ブツブツと、どうしよっかなーといいながら、のんびりと支度しながら、ランドセルをあけて、
あ、テストしたんだ。僕65点。
なんのテスト?算数!おお、65点。行ってなかったのに、65点も取れたんだ。ほおお。
息子の頭を撫でた。嬉しそうだったな。
私は、これまでテストをほめることがほとんどなかった。テストなんてって思ってた。
だけど、息子がそんな風にテストやったんだっていうんだから、それは、よくできたってことなんだろう。
しかも自分から見せたんだもんね。
よく頑張ったんだ。
そのあと、私はもうリミットだったので、でかけるわ、って声をかけて支度をした。そしたら、息子、
行くから待って!
って。
今日も学校へ送っていった。いやだなあって言いながらとぼとぼと歩く。ママも遅刻だわあと二人でブツブツ。
学校へいくとさ、筋肉痛になるんだよね。ふくらはぎ。
そうかもね。運動不足だから、ね。
(容赦ない)
一応クラスまで送り、先生にご挨拶したら、私はそのまま出勤。
私は最近、自分でもおかしいなと思うんだけど、笑うことが多くなった。息子もぼちぼちとおかしなことを言うようになりました。そして、あれをやってみようかな、とか、これをやってみたい、あれは嫌だ、これは嫌だと言うようになりました。
秋だけど少しずつ元気になっています。
ときわくん、昨日はけいくんは学校にいきませんでした。今日はけいくんは学校へ行きました。明日はわかりません。学校へいくときは、ご飯を入れておくように言っておくね。
【『親子の手帖』子どもたちの未来のために、「理解のある親と子どもの精神」の章を読んで。 】
私はここには非常に重要なことが書いてあると思っています。何度か繰り返して読みました。
親が子育てから逃げている。この言葉は衝撃的です。子どもに近づくことが怖い。親は子どもよりも先を進まなくてはならない、親は理解がなくてはならない、親は合理的でなければならない、そんな子育てをしていると子どもは首肯する以外にできなくなると、書かれています。まさに、自分のことを言い当てられているようです。
私は自分で子どもを産むまで、子どもが怖くて、自分が子どもを産んだら、どんな風に育てていいか、わかなかった。でも、産んでみたら、こんなにかわいい存在はない、というぐらいかわいくてかわいくて。
私はいいお母さんになろうとしていたし、実際いいお母さんだねってなんだも言われた。不登校の息子は、学校や保育園では、ほんとにけいくんはいい子で、っていわれ続けて、親しい友人からは、いい子すぎて心配って言われていました。
すでに友人は見抜いていたのです。
私は子どもの自由を認め、自立を促し、理解のある母にならなくてはならないと思っていた。
子どもそのものを見ずに、世間が考えるようないわゆるいい親になろうと必死だったんだろう。
不登校についてもたくさん学んだつもりになっていたし、わかったつもりになっていたけれど、本当に大切なことは、息子に近づくことだった。世間の不登校を学んだり、悩みを共有することじゃない。ダメじゃないけど、それは自分の子どもと向き合うことではないのだろう。
もちろん、誰にも言えなくて辛くなるぐらいなら、吐き出した方がいいし仲間は大事なんだけど。
でも、私の場合、必要だったことは、私自身がちゃんと子どもたちに向き合うことだったんだ。
方法論ではない、と鳥羽さんが葛藤しながら、躊躇しながらも伝えたいことは、親が子どもに近づくこと。子育ての素晴らしさを掴むこと。
そんなお話なんじゃないかと思うのです。
今年2回目の『親子の手帖』の著書鳥羽さんのお話し会をします。
まだお席があります。ぜひお話を聞きに来てください。
https://oyakonotechou2.peatix.com/
【カンボジアの絹織物の話】
そういえば、時々集まって手芸している同好会で10月の半ばごろにカンボジアの絹織物のおはなし会をしました。
8月にカンボジアに行き、旅行の最終日たまたま空いていたのでガイドさんにお願いして、カンボジア絹織物の工場を見学させてもらいました。ありがたいことにそこは、森本さんという日本人がカンボジアの伝統織物を復活させて手織りする工場を開いた場所でした。
そこは、IKTTクメール織物研究所というところ。
絹なのにとてもしっかりした織になっています。
現地で見た工場は、とても質素な作りで、木で作った建物に、1階で作業して、2階がお店になっていました。
中にいた日本人女性(お名前を失念してしまいました)が、工場を案内してくれて、工程を見せてくれました。
*元々天然の蚕の繭は黄金であること。
*工程が手作業なこと。
*絣のデザインは、紙などにはなく、頭の中にあること。
*染める素材も自然のものをつかっていること。
そんなお話でした。
カンボジアは絹織物が有名とは聞いていましたが、計画せず行ったところで、
この工場に出会えたことは、ご縁を感じました。(いや、むしろ計画していくべきところだったのかも。。。)
そして、帰国後、話を聞きたい!という人が何人かいそうだったので、友人の間でいくつかお話をする機会を作ったというわけです。
もちろん、カンボジアの有名な歴史的建造遺跡のアンコールワットやアンコールトム、タプロームやバンテアイスレイなどのお話も。
ワニや蛇のはなしも。
私は、帰ってきたその時に、このカンボジアの面白さがうまく言葉にならなかったけれど、いま思うのは、完成されすぎた世界じゃないことに感動したのかも。
建造物も壊れていたり、国全体というか、町全体というか。
それは歴史がそうだからかもしれないのだけれど。
このカンボジアの絹織物も、伝統の復活と言っていて、そして伝統は変わるものと、スタッフの方はおっしゃっていました。
これからどんな布が織られるのか楽しみです。
【明日早く起きられるかな】
思っていることを言葉で表現できることは、もしかしたらとても何というか、ストレスのない状態なのかもしれない。
息子は、昨日学校に行った。
放課後は友達の家に行った。
私は、息子が学校に行った日は、あんまり様子を聞かないことにしてる。大抵は、ああだった、こうだったと話すことが多いから。
私が仕事から帰ると、
ママね、今日ね、遊びに行った。
え?連絡なかったけど。
ううん、行ってない。
え?
いや、行った!
え?どっちよ?
いった!Mくんち!
あら、珍しい。今日はいいって?
うん、すんごい珍しいんだけど、いいって。
そっか。
マイクラみんなでした!マイクラで誰が一番いい家作れるか、やった!
へーーー。
面白そうねー。誰が一番だったの?ああ、でもさ、行くときは連絡入れておいてね。何かあったら心配するから。
うん。
あ、明日は、早く起きられるかなあ。
明日?そういえば、先生、8時15分出発って言ってたなあ。
明日は校外学習でプラネタリウムに行ってくることになっている。市内のプラネタリウムで半日で帰ってきてそのまま授業。校外学習でも短いバージョン。息子は、朝が全くダメで。それはゲームのやりすぎなのか、夜更かしなのか、本人も少しわかっていて。
今日は早く寝ないと!
そうだね。
あと、エチケット袋と水筒。ママ、ある?エチケット袋。
え?ない。作りなー。
エチケット袋!
ないから、自分で作るの。袋とチラシで。
えーーー。ママ、ないのーーー。えーーー。エチケット袋。
もう、しょうがないな。教えるから、作る!はい。
と言って、一緒に作る。チラシがあってよかった。我が家は新聞を取ってない。
ああ、これでいける。早く寝なくちゃ。
そう言いながらもゲームから、頭が離れない。
ママ、先に寝るよー。ママも眠い。
そのまま、お布団に行き、本も読まずに電気を消して寝る。
こうやって、自分で問題や気になることが言葉にできて会話ができるというのは、本人も問題がわかり、解決できるということだから、ストレスがだいぶ減らせるのではないかと思う。
布団の中で、
今日の給食なんだった?
と聞くと、
え?普通。
普通ってさ、何たべたの?ママはどう?って聞かなかった。何?をたべたか。
白ごはんと味噌汁と魚と野菜。
語彙が貧困。
どんなお魚だったの?塩焼き?フライ?あんかけ?
息子は答えに困っていたので、まあ、明日早いから寝ようっと言って寝た。
友達遊んだことは話すけれど、学校のことは話さない。授業どうだったかは、聞かない。
少しそうやって、様子みるかな。
ね、ときちゃん。
今日は甘えん坊だなあ。明日はゲージから出してもいいかもね。
キッチンだけ閉めてね。
【心の体力】
息子は数日前から学校にいくと言ってたので、今朝は一緒に学校に行きました。
割とあれこれ気にするタチだから、いく前に授業の準備ができてないと、なんとなく気がのらない。
今日は、起きてくるのが遅くていくんだから行かないんだか、よくわかんかなったから、電話をせずに、日課表をみて準備させた。
いつもなら無理に行かせるつもりはないけれど、迷いがあるなら、少し背中を押してみようと思って、背中を押してみたら、どうやら重い腰が上がったみたいで、一緒に学校まで歩いた。
新しい上履きは、少しぶかぶかで。
大きいな、この上履き。
そうよ、すぐ履けなくなっちゃうんだからさ。大きめにしといた。
上履き履く機会があってよかった。一回でも履けば無駄にはなってない。
クラスにいくと、音楽の時間でまた誰もいない。
亀さん、おはよう。
クラスは日当たりがよくポカポカとして暖かかった。
ママさ、先生とお話しがあるから、職員室寄って仕事行くわね。一緒に職員室行く?
いいや、いってらっしゃい。ぼく、ここで待つよ。
うん、じゃあね、いってきます。
そのまま職員室によって、担任の先生にこの前のパパ、怖い!の話をお伝え。
先生、
それなら、みんなにそれとなく、傷つけるようなことを言ってはいけないと、注意しますね。
いえいえ、そういうことじゃなくて。言っちゃいけない、とかじゃなくて。むしろ、開けっぴろげにいうことも大切なこともあるかもしれないし、言いたいことを伝えられないのは、おかしい。うちの子か気にしすぎかも知れないし。正しいっぽいことばかり言うのも、怖いですしね。しばらく考えたんですけど、もしかしたら、知らないから「怖い」になるのかもしれないので、教室でパパに少し話す時間をもらうことはできますか?
ああ、なるほど。大丈夫です。
また、そういう日を決めましょう。
なんと物分かりのいい先生。
ちょっと、いいのかな?と思ったんだけど、パパにも話をして、少し時間がもらえそうなら、そういう機会を作ってもらおうと思いました。
息子の心の体力が少しずつ復活している兆し。たくさん話をするようになった。行くか行かないか、迷いも口にするようになった。
本当にダメな時は、私もわかるつもり。
行ったり行かなかったりを迷ってるとき、子供自身もしんどそうな時は親が決めてもいいのだろうとおもうし、背中を押したり、応援することがあっても、手をかすことがあってもいいだろうし。
大人だって、一人では生きていけないんだものね。
学校にいく前に
今日はときわ、ゲージだよ、
って。いつもけいくんのそばにいたから寂しのかミャアミャアとたくさん鳴いてた。
帰ってくるまで泣いてるかな。
【忙しさで時間を埋めない】
あれこれやっていると、かとちゃんはいろいろやっているねーと言われるのですが、そうでもないです。特にここ最近敢えて時間をつくるということをやっています。
特に一人の時間。
ネットをオフにすること。
一人の時間を作って本当にやりたいことや、本当に必要なことだけをやる、ということに集中しようとしています。
これはなかなか大変です。友達とあって、お酒を飲んだり食事をしたり、ちょっと難しい話をしたり、本の話をしたり。よく勉強会も行っていたりしました。そういう時間は充実しているようにみえる。いわゆるリア充というやつだ。
すごく楽しくて成長しているという錯覚になる。
行きたいイベントにはわりと積極的に行っていたと思うし、誘われたら断らずに楽しんでいろいろやっていたと思う。
だけど、それも少しお休み。
学ぶことをやめるということではなく、もっと内側に向かっていくことをやってみている。本当はこういうのは、学生時代にやっておくことなのかもしれないんだけれど。
私は一人の時間が取れるようになって、よく笑うようになったなと思います。
おかしいなと思って大笑いすることが増えた。
自分でいうのもなんですが。
掃除をしながら、編み物をしながら、読書をしながら、庭の手入れをしながら、
一人で黙々と何かをする時間は、私には必要な時間だったのだろうなと思う。
忙しく何かをすることで、時間を埋めてしまわないこと。
考える時間をつくること。
空白をつくること。
悶々とすること。
真ん中に戻すこと。
掃除をすること。
食べて、寝ること。
一人で移動をすること。
もう少し続けてみようと思います。
【本当らしさを確かめる】
古典の読書会に参加しています。なかなか難しくて、落ちこぼれ組の私としては、一つ一つを追うだけで精一杯。
言葉がわからないとつまづいてばかり、一つ一つを読んでいると全体が見えなくなるぐらい遅いです。
自分でも嫌になりそうになります。
それでも、ああかな?こうかな?と想像力を働かせたり、調べたりして、少しでも本当のコトに辿り着けるように読んでいく。
講義は古事記は終わりなんだけど、私はまだ読んでる。。。
当時のことが想像つかないから、なんのことを言ってんだか、ここで、この話?みたいなの、に、ついていけない。
まあ、でも、誰に怒られるわけでもないので、最後まで読んでみる。
わかんないものを読むってしんどいけど、自分で納得するまでね。
誰かの言ったほんとうらしさを確かめる時間が必要で、ただ純粋に信じても良さそうなこともあるけれど、一瞬立ち止まって、あれ?これってほんとなのかな?と思うことがすごく大切なような気がして。
一つでもいいから、ああ、なるほど、というところまで読んでみる。
自分で答えを出す、というのは、そういうことのような気がする。
全面的に信じることも、信頼関係のなかでは必要なこともありますが、実に自分の 判断の中で、信じてたことの揺らぎが出てきたのなら、まずは確かめる、ということをすっ飛ばしていいのかなと思う。
全部を確かめてたら、あっという間に歳をとってしまいそうだけれど、ね。