【なにを選択するか、しかないか】
数日前、おなかが痛くて熱があって、フラフラになりながら、もうろうとして観たamazonプライムの映画「打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか」。
数年前に流行ったアニメ。
この中に、「人生は(だったかな?)は、運命でもなく、ラッキーでもなく、選択だ」
という言葉があって、私はその通りだと思った。何かが起きたときに、そんな運命だったとか、宇宙の法則だとか、そういう風に思うことはあんまりない。
起きたことに対して、次に起こす行動の一つ一つがその次を決めている。
旦那さんは、心臓で倒れたことがある。これはどうにもできない事実で、ただその後はすぐに病院にいき検査をして、ペースメーカーという機械をいれた。この機械をいれるという行動を決断する(選択する)までに1週間ほど時間がかかった。その選択をするのに、彼は宇宙に祈ったりはしなかった。いやしたのかもしれないけれど、祈りの形を見ていない。彼がしたことは実家であるモルジブに電話をして、モルジブでも定期検査ができるか、モルジブでも手術ができるか、の確認をした。あんなに信心深いのにね。
そして、もし、答えや行動が決まらないとき。
何かに頼るよりも、じっと待つ、というか、意味付けや理由付けを必要としなくてもいいのではないか、と思う。
結論をださなくていいし、もやもやしていい、そのまま、そのままを見る。難しなーって、悩んでいる自分を、頭の上のほうの自分が眺めているような感じ。
昨日、息子は夜になって、学校にいきたくないと言った。
私は、どうしてか言える?ときいてみた。
わからない、というか、言いたくない。
言いたくないというのは、わかっているってことかな?
うん、わかってる。
そう。
じゃあ、明日は休みね。
うん。
私は学校で何があったか、どうしてなのか、聞かなかった。
ただ、息子は行きたくないと言っている。
そして、実際に行かない行動をする。
それだけ。
そうして、たくさんのことを知らなくてもいいのかもしれない、とも思った。知っていることが多いとなんでもかんでも紐づけたり、関連付けたりしがちだ。でも、案外そんなに関連していないかもしれないし、ましてや原因なんて複合的で、わからないことのほうが多いかもしれないから。
私がやることは次の選択をひたすらしていくこと。
今日はご飯を食べる、今日はパンを食べる。今日は電車に乗る、今日はバスに乗る。
今日は人に会う。今日は本を読む。その繰り返し。
選ぶための理屈というか論理は、ただ好きかどうか、今日の感情はどちらか、ということのような気がする。選べないなら、食べない、というのもあり。
そうして、たまたま自分の好きなことをたまたま友人が好きだと言ってくれた時は、なんとラッキー一緒に楽しめる、これがいいなと思う。
息子はなんとなくそういうことを直感的に知っている気がするなって、昨日、少し思った。
毛虫に刺されたのは、運が悪かったからって答えた、息子はそのままみているだけなんだろうって。